『百尺竿頭進一歩』
2014.10.04
おはようございます。本日は日中色々と所用がありますので早めに出社した次第であります。私事ではありますが私が大学を出てすぐに就職しお世話になっていた会社の創業者の座右の銘として「百尺竿頭 百折不撓」という自筆の言葉を事務所の額に飾ってありました。私は創業者であった先代の社長がお亡くなりになってからの入社だったので直接お会いしたことはございませんが、非常に人間味のあるマンパワーの強い尊敬出来る人物であったようです。二十代であった私はあまり気にしてなかったのですが、退社して年月も経て厄の年にもなった今日この頃勤めていた頃のその額の文字をよく思い出します。おそらく後文の百折不撓については何度失敗しても挫けず志を全うするという意味で、相撲の口上等でも使用される不撓不屈のような意味でなかろうかと想像しますが、前文である百尺竿頭については百尺竿頭進一歩から引用したのではないのでしょうか?そのまま解すれば、「努力に努力を重ねて極みの境地に達しても、志を全うし挫けず恐れず更なる境地を目指す。」という意味なのでしょうか?創業者は大変な努力家で勉強家であった方だとは先輩方からも教えて頂いた事があります。今となっては無理な事ではありますがお若くして他界されたかの人が長命であれば、私如きでも若かりし日に直接の御教示を賜る機会があったのではないかと寂寞の感もたえません。ご冥福を祈るとともに今も尚発展されている会社の更なるご繁栄を祈念致します。
さて、百尺竿頭進一歩ですが私は大学時代に教授からこの言葉を教えて頂きました。思想史か哲学の時間かは覚えていませんが確か中国の言葉が語源で日本では禅の境地を表す言葉であったように思われます。単純解では「はるかかなたの目標に達してもさらに前向いて進むような向上心を示す。」という意味にて使用されているようですし常用はそれで良いらしいのですが、本来はもう少し違った意味を為していたみたいです。宗教的、哲学的要素が強くなりますが百尺と言えば建築用語では依然として使用されている一尺の100倍なので約30m。現在のビルなら10階建てくらいでしょうか?その長い竿の先からさらに一歩進めば当然落下して絶命します。それ位我々が現実に生活しているこの世は儚いものであるし、一寸先は闇という言葉があるように本当に何が起こるか分かりません。それは時代に関係なく普遍のものであるみたいです。現に中国の古事にも「人間万事塞翁馬」とあるのもしかりです。諸行無常の世にあって自然と協調し生かされている事に感謝しすべての物事を享受する覚悟を持つ事が肝要であると説いているらしいです。私は宗教家でも思想家でもありません。全く専門的な知識も勉強もしていない素人です。しかし、人間の生きる道しるべとして自分の宗教を大切にする事は決して悪いことではないと思います。それは宗教活動に没頭することではありません。古来より日本人は多神教悪しとはされていないので、地域のだんじりや太鼓台、獅子組などの神社のお世話に携わるのも良し、八十八カ所のお寺を回るのも良し、人として何等かの心の芯になるのも一種の宗教であり信心であると私は考えます。世の中の無宗教の方が悪といっているのでは無く、人間は基本的には弱い生き物だと思いますので精神的な拠り所もあっても良いのではないかと私は思います。ちなみに私の家は仏教でお寺は真宗興正派の専立寺で、神社は地元の住吉神社です。元来神仏は厳かな存在で敬うものであり現世利益のために頼るものでは無いという高尚な意見も耳にしますが、汚れた俗世を生きていると精神的支柱として頼りたくなるのは自らが凡夫な弱者だからと自問自答する近づく台風がとても気になる中年の独り言でした。
さて、百尺竿頭進一歩ですが私は大学時代に教授からこの言葉を教えて頂きました。思想史か哲学の時間かは覚えていませんが確か中国の言葉が語源で日本では禅の境地を表す言葉であったように思われます。単純解では「はるかかなたの目標に達してもさらに前向いて進むような向上心を示す。」という意味にて使用されているようですし常用はそれで良いらしいのですが、本来はもう少し違った意味を為していたみたいです。宗教的、哲学的要素が強くなりますが百尺と言えば建築用語では依然として使用されている一尺の100倍なので約30m。現在のビルなら10階建てくらいでしょうか?その長い竿の先からさらに一歩進めば当然落下して絶命します。それ位我々が現実に生活しているこの世は儚いものであるし、一寸先は闇という言葉があるように本当に何が起こるか分かりません。それは時代に関係なく普遍のものであるみたいです。現に中国の古事にも「人間万事塞翁馬」とあるのもしかりです。諸行無常の世にあって自然と協調し生かされている事に感謝しすべての物事を享受する覚悟を持つ事が肝要であると説いているらしいです。私は宗教家でも思想家でもありません。全く専門的な知識も勉強もしていない素人です。しかし、人間の生きる道しるべとして自分の宗教を大切にする事は決して悪いことではないと思います。それは宗教活動に没頭することではありません。古来より日本人は多神教悪しとはされていないので、地域のだんじりや太鼓台、獅子組などの神社のお世話に携わるのも良し、八十八カ所のお寺を回るのも良し、人として何等かの心の芯になるのも一種の宗教であり信心であると私は考えます。世の中の無宗教の方が悪といっているのでは無く、人間は基本的には弱い生き物だと思いますので精神的な拠り所もあっても良いのではないかと私は思います。ちなみに私の家は仏教でお寺は真宗興正派の専立寺で、神社は地元の住吉神社です。元来神仏は厳かな存在で敬うものであり現世利益のために頼るものでは無いという高尚な意見も耳にしますが、汚れた俗世を生きていると精神的支柱として頼りたくなるのは自らが凡夫な弱者だからと自問自答する近づく台風がとても気になる中年の独り言でした。
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