『池工のダルビッシュの趣味』
2014.09.17
只今、池工のダルビッシュが事務所に帰還して来ました。本日が杭打ち工事の最終日という事もあってとても忙しかったみたいです。いつも有難うございます。また、事故もなく危険な工事を無事終了できた事に『感謝』です。早速、事務所で夜の部の仕事、施工図の作成に取り掛かりました。お疲れ様です。私如きでも当人が現場で忙しいので施工図作成や墨出し等の作業は手伝っていますが現場代理人の苦労を再認識する毎日です。
今日はうちのダルビッシュの趣味について少し触れたいと思います。彼は何かと多趣味な方ですが、なんといっても目を見張るほどスゴイのは『読書』に関してです。家には7000冊以上の本を持っていてまるで図書館です。納屋に母屋に床補強までして保管してあります。分野は賞を受賞するような話題の本、小説から仕事に関係するような建築関係の本、自然科学、歴史関係、哲学、思想学、雑学etc その他もろもろ多岐にわたっています。その分、田舎者のくせにとても博識です。不肖この私めも、とても日本史が好きで学生時代から多少の歴史小説も読んだ経験があります。その中で、「鬼平犯科帳」や「剣客商売」などで有名な池波正太郎先生の作品で「火の国の城」という小説があります。単刀直入に言って戦国武将の加藤清正公をモデルにした歴史小説です。この池波作品や「竜馬がゆく」、「坂の上の雲」などの代表作で著名な司馬遼太郎先生の作品に関してはダルビッシュも大好きで侃侃諤諤の議論を社内で繰り広げる事も稀ではありません。加藤清正公についての歴史家の先生方の所見には諸説ありますが、はっきり言って400年前の事の真実など誰ひとり分かるはずがないのが現実でしょう。でも、プロの先生方から我々素人までが想像する事にこそ意義深いものがあると思います。勉強不足の私論で甚だ恐縮ではありますが、私は池波先生の持論に賛成しています。ダルビッシュもしかりです。清正公は豊臣恩顧の大名である事は周知の事です。しかし、関ケ原の合戦の折に徳川家の味方をして東軍として参戦しました。この戦いが豊臣と徳川の戦と位置付けられたのは後世で、当時は石田三成公を中心とした文治派、と清正公のような武断派の内部抗争のような意識であったらしいです。しかし、実際はこの戦いで時代の主流は徳川家で移り変わったのも事実みたいです。しかし、清正公の恩師太閤秀吉公及び世継ぎである右大臣秀頼公に対する想いは不偏のものがあったと想像します。戦の功績で肥後の国(熊本)に移封された後も徳川家と豊臣家の仲立ちに尽力したのも史実らしいです。でも、これもダルビッシュと同じ意見ですが、「いずれは豊臣家は大阪を追われるだろうと・・・、しかし亡き父が心血を注いで築城した大阪城は手放すまい。そうすれば当然、徳川は本気で豊臣を潰しにかかると・・・」と清正公は想像したのではあるまいか。近い将来いずれ訪れるであろうその有事の際、最後は秀頼公を熊本城に奉じて徳川との一戦も覚悟していたのではないか?とても興味がわき数年前に実際に熊本城を見てきました。職業柄、歴史建築物の見学はよくいきますがこれはただ単に清正公の意図の痕跡がどこかにないかとの探訪でした。一目瞭然、まさに「戦う城」でした。現存するお城は当時と比べて縮小されているものの私は確信しました。西南戦争の折、明治政府の九州鎮守府は熊本城にあったみたいですが、あの戦上手の西郷隆盛翁と血気盛んな薩摩隼人でさえ落とせなかったみたいです。250年も経って当時の近代兵器を所持したといわれる軍隊でもです。西郷翁は「この戦いは明治政府に負けたのでなく清正公に負けた」と言いい残して鹿児島へ敗走されたとの逸話も残っているみたいです。まさに人としての信義を全うしようとしたのではないかと400年前のロマンに酔いしれました。結局、二条城での家康、秀頼対面の大義を果たした後、清正公は急死され加藤家も後に改易という末路をたどった訳ですが、これも清正公を恐れた徳川方によっての暗殺ではないかとの想像をも掻き立てられます。歴史は繰り返す。人は歴史から学べとよく言われますが日本人として自国の歴史に触れる事は必然のような気がします。されど、その晩は子どものように喜んで九州新幹線に乗って鹿児島まで行った訳ですが、とある繁華街の小さな居酒屋で呑み過ぎて酔っぱらってしまい、プチぼったくりにあったおバカな私。四十の秋の苦い思い出でした。
今日はうちのダルビッシュの趣味について少し触れたいと思います。彼は何かと多趣味な方ですが、なんといっても目を見張るほどスゴイのは『読書』に関してです。家には7000冊以上の本を持っていてまるで図書館です。納屋に母屋に床補強までして保管してあります。分野は賞を受賞するような話題の本、小説から仕事に関係するような建築関係の本、自然科学、歴史関係、哲学、思想学、雑学etc その他もろもろ多岐にわたっています。その分、田舎者のくせにとても博識です。不肖この私めも、とても日本史が好きで学生時代から多少の歴史小説も読んだ経験があります。その中で、「鬼平犯科帳」や「剣客商売」などで有名な池波正太郎先生の作品で「火の国の城」という小説があります。単刀直入に言って戦国武将の加藤清正公をモデルにした歴史小説です。この池波作品や「竜馬がゆく」、「坂の上の雲」などの代表作で著名な司馬遼太郎先生の作品に関してはダルビッシュも大好きで侃侃諤諤の議論を社内で繰り広げる事も稀ではありません。加藤清正公についての歴史家の先生方の所見には諸説ありますが、はっきり言って400年前の事の真実など誰ひとり分かるはずがないのが現実でしょう。でも、プロの先生方から我々素人までが想像する事にこそ意義深いものがあると思います。勉強不足の私論で甚だ恐縮ではありますが、私は池波先生の持論に賛成しています。ダルビッシュもしかりです。清正公は豊臣恩顧の大名である事は周知の事です。しかし、関ケ原の合戦の折に徳川家の味方をして東軍として参戦しました。この戦いが豊臣と徳川の戦と位置付けられたのは後世で、当時は石田三成公を中心とした文治派、と清正公のような武断派の内部抗争のような意識であったらしいです。しかし、実際はこの戦いで時代の主流は徳川家で移り変わったのも事実みたいです。しかし、清正公の恩師太閤秀吉公及び世継ぎである右大臣秀頼公に対する想いは不偏のものがあったと想像します。戦の功績で肥後の国(熊本)に移封された後も徳川家と豊臣家の仲立ちに尽力したのも史実らしいです。でも、これもダルビッシュと同じ意見ですが、「いずれは豊臣家は大阪を追われるだろうと・・・、しかし亡き父が心血を注いで築城した大阪城は手放すまい。そうすれば当然、徳川は本気で豊臣を潰しにかかると・・・」と清正公は想像したのではあるまいか。近い将来いずれ訪れるであろうその有事の際、最後は秀頼公を熊本城に奉じて徳川との一戦も覚悟していたのではないか?とても興味がわき数年前に実際に熊本城を見てきました。職業柄、歴史建築物の見学はよくいきますがこれはただ単に清正公の意図の痕跡がどこかにないかとの探訪でした。一目瞭然、まさに「戦う城」でした。現存するお城は当時と比べて縮小されているものの私は確信しました。西南戦争の折、明治政府の九州鎮守府は熊本城にあったみたいですが、あの戦上手の西郷隆盛翁と血気盛んな薩摩隼人でさえ落とせなかったみたいです。250年も経って当時の近代兵器を所持したといわれる軍隊でもです。西郷翁は「この戦いは明治政府に負けたのでなく清正公に負けた」と言いい残して鹿児島へ敗走されたとの逸話も残っているみたいです。まさに人としての信義を全うしようとしたのではないかと400年前のロマンに酔いしれました。結局、二条城での家康、秀頼対面の大義を果たした後、清正公は急死され加藤家も後に改易という末路をたどった訳ですが、これも清正公を恐れた徳川方によっての暗殺ではないかとの想像をも掻き立てられます。歴史は繰り返す。人は歴史から学べとよく言われますが日本人として自国の歴史に触れる事は必然のような気がします。されど、その晩は子どものように喜んで九州新幹線に乗って鹿児島まで行った訳ですが、とある繁華街の小さな居酒屋で呑み過ぎて酔っぱらってしまい、プチぼったくりにあったおバカな私。四十の秋の苦い思い出でした。
威容を誇る天守閣
思い出の熊本城です。
最後に杭打ち工事を終了した 本日のダルビッシュ。
12mのPC杭を施工中
作業終了~撤収です。
皆様お疲れ様でした。
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